新しい学期が始まる前に、
書き留めておきたかったことがあります。
書き留めておきたかったことがあります。
高橋海さんのことです。
海さんは、2018年3月22日に不慮の事故で亡くなりました。
ぼくが担当する金沢美大、石彫コースの学生でした。
3月21日、同級生が泣きながら、ニュースで大変なことになっていると電話をしてきました。
まさかとは思いましたが確認を急ぎ、すぐに本人であることがわかりました。
故郷の花巻で行われるイベントに向かっている途中、山形県鶴岡市での事故でした。
常に全力投球の彼女のことだから、
イベントでどんな絵を描こうかと考えながら道を走っていたのかもしれません。
事故の翌日、22日の夕方に海さんは息をひきとりました。
3月1日の卒業式に恒例の仮装をして、いつものように満面の笑みを浮かべ、
卒業証書を受け取った、そのたった3週間後のことでした。
23日の早朝、ぼくは花巻に届けられるものはないかと石彫場をごそごそ探し、
青いつなぎと、小さな絵、錆びたナタ、懸命になめしていた猪の皮を、鞄につめこみました。
振り返れば、届けてよかったのか?というシロモノばかりです。
朝10時に黒板前に集まってきた学生たちと一緒に黙祷を捧げ、花巻に向かいました。
このような形で再び訪れることになろうとは思いませんでしたが、3度目の花巻です。
24日朝に花巻に着いて、なんとか出棺に間に合い、海さんに会うことができました。
花を添えさせてもらい、その後もご家族とご一緒させてもらいました。
その晩はご家族の方と、金沢の知り合いが集まり賑やかで、暖かい会になりました。
彼女がこんなにも暖かくユニークな家族に育まれていたことが、しみじみ感じられた夜でした。
金沢の連中はとても個性の強い人たちばかりでしたが、愛情に溢れた人たちでした。
海さんのお父さんが何度も「私が実の父親です。」と主張しなければならないほど、
父親代わりの人が集まって天真爛漫な彼女の思い出を出し合っていました。
彼女と金沢連中の出会いはだいたいみんな同じ、「海ちゃんが、ひょっこりと現れた。」と。
彼女はよく将来の夢の話をしていました。
自分で作った船で日本一周、モンゴル、能登生活、絵本作家などなど。
冗談かと思うことも多かったけれど、聞いてみると全部本気でした。
花巻に行ってみると、その夢のルーツの大半が家族にあることが分かりました。
いつも驚かされることばっかりだったけど、それは彼女にとってごく自然なことだったのです。
いつも絵を描いているのも、料理がうまいのも、素早い木登りも、色んな楽器が出来るのも、
それに自分で造った船で日本一周という破天荒な夢までもお父さんからでした。
卒業間際の夢は絵本作家でした。
2月にその話を聞いたとき荒井良二さんという名前が出てきたりして、
これまでの夢よりも具体的に思っているのがわかりました。
その夜、絵本作家に向けて具体的に一歩踏み出そうと、歌を作っていたことを知りました。
その歌は、荒井良二さんの絵本「きょうはそらにまるいつき」を歌ったものです。
プロのピアニストの演奏のもとに、彼女が大好きだった人と一緒につくった歌でした。
会ったことがないけれど、とにかく荒井さんに聞いて欲しい思いで作っていたようです。
彼女らしい思いきりの直球方法ですが、絵本作家になるための思い描いた第一歩でした。
一緒につくった彼が、何度か「これで完成です」と泣きながら、スピーカーで流してくれました。
目の前のスピーカーから流れる彼女の声は本当に一生懸命で丁寧に言葉を繋いでいました。
その夜は、花巻の駅周辺で遅くまで、飲みました。
店の人が海さんとご家族のことをよく知っているのには驚きましたが、
花巻の町も彼女の思い出話で溢れているようでした。
翌25日の葬儀には金沢から同級生や石彫の仲間も駆けつけてくれました。
そして、葬儀の最後に「きょうはそらにまるいつき」が会場にながれ、
その歌が終わったとき、静まりかえっていた広い葬儀場に拍手の輪が拡がり、
その拍手で少しは彼女を見送れた気がしました。
葬儀が終わり、学生たちとご家族に挨拶をして、ぼくたちは花巻を出ました。
色んなことに興味があり、実行力があり、思いやりがあり、才能に溢れ、
とにかく笑顔の絶えない人でした。
泣いていることもありましたが、笑いながら泣いていました。
彼女にとって大学は窮屈だったのかもしれませんが、石彫場は気に入っていたようでした。
石仏や祠をつくりながら、石彫場の裏で堆肥を造ったり、燻製を造ったり、藁を灰にしたり。
魚はもちろん鶏をつるして捌いてみんなで食べたこともありました。
石仏建立のための資金稼ぎで猪鍋を振る舞いながら寄付を集めていたこともありました。
その猪の皮をそれから長い間なめしていました。
大学の中では似付かわしくないことも多々ありましたが、
それがまるごと彼女の創作活動でしたから、ぼくは何も止めませんでした。
ただ、その創作活動の痕跡ぐらいは残しておいてくれと言って、選んだのが映像でした。
そして、手始めに堆肥づくりの映像から始まりました。
でも、彼女にとっては、日々の活動を作品に落とし込むことも窮屈なことでした。
合評前や作品の相談をするときには、何度も、何度もその話になりました。
人に囲まれて、自然を慈しみ、川や海、土や木の生命を体で感じ、人や自然の恩恵に感謝する。
そこまでは良くわかるのですが、彼女は自身が受けた恩恵を、自分から返そうとする。
その相手が人の場合はまだよかった、感謝を伝える方法が見つかりやすいから。
その相手が自然や、自然のカミさまの場合は、どうすればいいか?
それが彼女の作品の根底にありました。
もちろん、それは簡単に見つからず、いろいろと葛藤していました。
そして作品化することで、その思いが鈍るような気がいつもしていたようでした。
その葛藤の中作り上げたのが、
石仏と祠を一年半かけて制作し、それを自分の畑に建立したことを映像にした作品。
蔓で作った巨大な恐竜を燃やして灰にし、最後は自分が土になると示すことで、
生命の循環を伝えようとした映像作品。
この二つです。
表現の明るさから、好きなことだけをやっているように見えがちですが、
自分自身の深い葛藤と、誠実に他者のことを考えて作りあげた作品でした。
どちらも木や土から、目に見えない微生物や菌、祈りにまで辿り着いていた。
今回、花巻に行って、葬儀を終え、宮沢賢治の生家と彼女の実家の近さを知ったとき、
ぼくは情けないぐらいに遅ればせながら、『哲学の東北』(中沢新一)の序文に、
贈与と宮沢賢治について書かれていたことを思い出しました。
自然や人から受け取った贈り物を、他者にも与えようとして、見返りを求めない贈り物、
そんな純粋な贈与は現世ではなかなか実現されず、不幸を突きつけられることも多い、
そんな現世で、贈与する人になろうとしたのが宮沢賢治である、と。
まさに彼女は潜在的に、そんな贈与する人に関わろうとしていた。
宮沢賢治のそういった姿が花巻で受け継がれているのか、
宮沢賢治的な贈与の霊が生まれる土壌が花巻にあるのか、
それはまだわかりませんが、
花巻というところが、自然や他者を慈しむ土地柄であることは十分に理解できました。
ぼくが秋田に行った頃に読んだ本で、本に出てくる人とは今も交流したりしているのに、
どうしてこの文章が三ヶ月前に頭に浮かんでこなかったんだろうと、本当になさけない。
できれば、制作中に伝えてあげたかった。
故郷と金沢での作品づくりの必然を。
故郷と金沢での作品づくりの必然を。
映像をみる機会があればまたゆっくり考えたい。
でもまさか、
四年間を共にした最初の卒業生が、すぐにいなくなることも、
三人しかいない石彫の卒業生の一人が事故に遭うことも、
謝恩会での写真が遺影になるなんてことも、
正直、いまだに信じられない。
ぼくはあと何年も教員をやっていると思うけれど、
卒業式を迎えるたびに、このことを思い出すのだと。
近くにいた教員として後悔が山のようにあるけれど、
この現場にいる限り、ぼくなりに伝えていこうと思っています。
誰よりも豊かな25年を過ごした卒業生がいたことを。
自慢すべき教え子がいたことを。
ただ、
思い出だけに、この死を留めておくことはできません。
この死を決して無駄にしてはならないということ。
これが少なくともこの死を知っている者への、
ご両親の切なる願いです。
海さんのお父さんが、最愛の娘さんを失って、深い哀しみの中にいるのに、
学生やこれからの人たちに伝えて欲しいと、託してくれた言葉です。
ぼくには他の言葉に置き換える術がありませんでした。
読んでください。
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死んじゃいけないということです。
死んじゃいけないということです。
海の近所のご夫婦からお手紙をいただきました。
軽トラに荷物を積み込んでいるのを見て、
これで帰るのはやめてほしいと言ってくれたのだそうです。
これで帰るのはやめてほしいと言ってくれたのだそうです。
もちろん、それでやめるような娘ではありませんでした。
ただ、多くの方に止められたことを、それがなぜか? と、
ただ、多くの方に止められたことを、それがなぜか? と、
考える分別があれば死ぬことはなかったのです。
命に関わることを軽んじないでほしいのです。
海のバカを、今一度考えてほしいのです。
あんなに膨れた顔になって棺に入るしかなかったことを考えてほしいのです。
将来のある若者が、無知なばかりに、無分別なばかりに、
その将来を閉ざされてしまうことはもう見たくないのです。
機会があれば、海の死を知っている人達にだけでも、
教訓にしてもらいたいと心から願っております。
親よりも先に、こんな若さで死んでしまうこと。
その家族の哀しみを伝えていただけたらと存じます。
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皆さん、それぞれに新しい春がやってきますが、
この言葉を忘れないようにしてください。
お願いします。
高橋海さん、
いろいろとありがとう。
やすらかにお眠りください。